パステルゾーンの日々

凸凹夫婦の子育てと、アニメと、考えごと。

家族でいるのに、孤独を感じた日のこと ― ASD特性と価値観の違いを振り返って ―

言葉の受け取り方の違いに気づいた出来事

最近、家族とのやり取りの中で、
「どうしてこんなにも気持ちがすれ違ってしまうのだろう」
と考える出来事がありました。

もうすぐ私の誕生日で、
「家族でバイキングに行けたらいいな」と話しました。
それは、特別なことがしたかったというより、
一緒に同じ時間を過ごしたい
という、私なりの気持ちの表現でした。

けれど返ってきたのは、
「自分は行かないけれど、お金は出すから自由に行ってきたらいい」
という言葉でした。

その言葉を聞いたとき、
私は気持ちを受け取ってもらえなかったように感じ、
強い寂しさを覚えました。

私にとっては
「一緒に祝うこと」
「時間を共有すること」
に意味があったからです。

この出来事を振り返って、
夫のASD特性と、私の感じ方の違いが
大きく影響していたのかもしれないと考えるようになりました。

ASD特性のある人は、
言葉をそのまま受け取りやすかったり、
言葉の裏にある感情や意図を汲み取ることが
難しい場合があると言われています。

「バイキングに行きたい」という言葉も、
私にとっては
「一緒に祝いたい」「気持ちを共有したい」
という意味でしたが、

夫にとっては
「行くか、行かないか」
「費用をどうするか」
という、現実的な判断の話
として受け取られていたのかもしれません。

また、夫には
人混みが苦手で、賑やかな場所では強く消耗してしまう
という特性があります。

バイキングのような場所も、
私にとっては
「家族で楽しい時間を過ごす場所」
ですが、

夫にとっては
疲労が大きく、自分を消耗させる環境」
として感じられていた可能性があります。

さらに夫は今は、
「自分を大切にする」「無理をしない」
と決めている時期でもあります。

そのため、
誕生日を祝うために外食をすることよりも、
人混みで消耗することを避ける判断が優先され、
結果として
相手の気持ちへの配慮が足りない言葉に
なってしまったのかもしれない、と感じました。

その後、感情的にならないよう意識しながら、
哲学対話の考え方を取り入れ、
私の気持ちも、夫の気持ちも大切にすることを意識して、
改めて話し合う時間を持ちました。

すると、
「3月は余裕がなく外出が難しい」
という理由が、初めて言葉として出てきました。

一方で、
「2月であれば行けそうだ」
という話になり、
最終的にはその形で落ち着きました。お誕生日はおうちで祝うことに(^^)

話し合いを終えて感じたのは、
理由が分かれば、私はちゃんと受け止められた
ということでした。

ただ同時に、
「もし最初から理由を伝えてもらえていたら、
こんなに深く傷つかずに済んだのかもしれない」
という思いも、正直に残っています。

相手の事情を理解することと、
傷つかなかったことにするのは、別なのだと感じました。

それでも、
対話を通して折り合いを探せたこと、
お互いの違いを言葉にできたことは、
私にとって大切な経験でした。

ASD特性を理解することは、
我慢することでも、諦めることでもなく、
違いがある前提で、どうすれ違いを減らしていくかを考えること
なのだと思います。

今はまだ答えは出ていません。
ただ、自分の気持ちを否定せずに大切にしながら、
少しずつ向き合い方を探していきたいと思っています。

 

2018年、お腹の中にいた次女へ。園長先生の言葉が今も子育ての軸

子ども哲学教室の紹介を聞いて

過去に娘の保育園で「子ども哲学教室」の取り組みについての紹介があり、
園長先生のお話を聞いて、胸がいっぱいになった出来事を思い出し記録しておきます。

(長女が入園した頃のお話なのですが、私の子育ての軸になったと感じているお話です。)

 

園長先生は、数年前に大学院で学ぶ中で、
「子どもを見る自分自身の視点が根元から揺さぶられた」と話されていました。

子どもを
・何もできない存在
・未熟な存在
・守るべき可愛い存在

そんなふうに見ていた自分に気づいたこと。
そして、知らず知らずのうちに
子どもを“親や大人の所有物”のように見ていたのではないか
と問い直したこと。

その言葉が、とても正直で印象に残りました。


「遊びは本気」

特に心に残ったのは、
「子どもにとって遊びは本気」
という言葉です。

大人にとっての「遊び」は、
中途半端、気晴らし、余った時間にするもの
そんな意味で使われがちです。

でも、子どもにとって遊びは違う。
石ころを一つ、大事そうに持ち帰る子ども。
その石の中に、子どもなりの「世界」や「夢中」がある。

その真剣さこそが、子どもの本気で、
遊びは学びにつながっていく。

だからこそ、
大人が先回りして教えすぎないこと、
待つこと、
ときには一緒に遊ぶことが、
主体性や根気を育てていくのではないか。

そんなメッセージを受け取りました。


子どもも、一生懸命生きている

私たち大人は、
仕事に家事に、時間に追われ、余裕がなくなりがちです。

でも、園長先生は
「子どもも同じように、一生懸命生きている」
と話されていました。

大人に対して失礼になることは、
子どもに対してもしていいのか。

手を引っ張って無理やり連れていくこと、
感情的に怒鳴ること、
大人同士なら許されないことを、
子どもにはしていないか。

「子どもを人として見ていますか?」
その問いが、胸に刺さりました。


種は、種のままで輝いている

もうひとつ、忘れられない言葉があります。

「種は、花を咲かせるから大事なのではない。
種は、種のままで輝きを持っている」

何かの役に立つから価値があるのではない。
結果を出すから大事なのでもない。

今、この瞬間の子どもに、
そのままで価値がある。

だから、待つことができる。
寄り添うことができる。

そんな考え方を、私は受け取りました。


この園に出会えてよかった

子どもの「今」に全力で寄り添い、
子どもと一緒に、一生懸命遊ぶ。

そんな園で、
娘が過ごせていることを、心からありがたく思います。

涙が出るほど、胸に残るお話でした。
この園長先生に出会えたこと、
この保育園を選べたことを、誇りに思います。

 

※本記事は、保護者向けの場で聞いたお話を、私自身の受け取りとしてまとめたものです。実際の表現とは異なる部分があるかもしれません。

 

この話を聞いたのは、2018年。
あのとき、次女はまだお腹の中にいました。

その次女も、もうすぐ卒園を迎えます。

当時、園長先生の言葉に強く心を打たれ、
「この考え方を大切に子育てをしたい」と思った気持ちは、
今も変わっていません。

子育てに迷ったり、揺れたりすることは何度もありますが、
あのときに受け取った言葉を胸に、
これからもぶれずに進んでいきたいと思います。

 

 

「嫌だ!」が多すぎる次女|こだわりか、我儘かで揺れる毎日

次女が一日の中で「嫌だ!」が多すぎる件

次女は、とにかく一日の中で「嫌だ!」が多い。

朝食は、偏食が多い中でも食べられるものを用意しているのに、
りんごやバナナですら、気分によって
「食べたくない」「嫌だ」と言います。
(※気分が原因の「嫌」)

朝起きるときも同じです。
ママが起こしてトイレを促すのは嫌で、
「パパじゃなきゃ嫌!」と言います。
それでもママが対応すると、「いやだ!いやだ!」と強く抵抗します。
(※こだわりが原因の「嫌」)

歯磨きも、
「パパがいい、ママは嫌」
(※こだわり)

園では、離れるときに
「嫌だ」と言います。
これは分離不安なのかもしれません。

習い事の前には、
おやつの内容が気に入らないと
「嫌だ」。
(※こだわり)

お風呂では、
自分で脱ぐのが嫌なときがあります。
(※気分、こだわり)

さらに、
姉より先に洗ってもらえないと嫌。
(※こだわり)

夕食も、自分の気に入らない内容だと
「嫌だ」と言います。
(※偏食、こだわり)

次女の「嫌だ」は、すべて同じではなく、
気分、こだわり、不安が混ざり合っているように感じています。

――一日に何回「嫌だ」と言っているんだろう。
一度、数えてみようかなと思うほどです。

毎日の生活の中で、
そんなに不快で嫌だと感じることが多いなんて、
次女本人もさぞ大変だろうと思います。

一方で、
嫌だと言われ続ける側もしんどい。

それでも、
私も夫も「嫌だ」と言えずに大人になった苦労を感じているからこそ、
大人に対して安心して「嫌だ」と言える環境を
作れているのかもしれない、
そんな誇りのような気持ちもあります。

こだわりを尊重してあげたい気持ちと、
「これは我儘では?」と思う一線が分からず、
悩んでいる日々です。

 

 

習い事でママから離れられない|年長の次女に感じる不安

今日は、次女の習い事での悩みについて書こうと思います。

公文、そろばん、スイミング、ピアノ……
いろいろなことを経験させてあげたくて、少しずつ挑戦してきました。

どの習い事も、行くこと自体はできるし、
いったん始めてしまえば、楽しそうに取り組むことができます。

ただ、ひとつ困っているのが、
入室のときに、ママからひっついて離れられないことです。

今も現在進行形で悩んでいます。
一時期はあまり気にならなかったのですが、
最近また、離れられない日が増えてきました。

原因は何だろう、と色々考えています。

YouTubeの影響で情緒が不安定になっているのか、
私の関わり方や、愛情不足が影響しているのか、
それとも、日々の生活の中での小さなストレスの積み重ねなのか……。

家ではパパっ子なのに、
習い事に行くときだけは、ママにひっついて離れません。

これって、分離不安と呼ぶのでしょうか。

今、私なりに工夫していることもあります。
気持ちの切り替えが一番の負担かなと思い、
事前にスケジュールを伝えて、見通しを持てるように声かけをしています。

行く気になっている日は、少しマシな気もします。
それでも、なかなかママの服をつかんで離せない日もあります。

公文では席に着くまでひっついている必要があり、
ピアノは別室待機ですが、ママが別室に出るのを嫌がります。
そろばんは玄関まで、
スイミングはプールサイドに入る手前まで……。

こういう様子を見ていると、
「小学校、ちゃんと登校できるのかな」
そんな心配が、どうしても頭から離れません。

 

今は「できないこと」より、「安心できる場所がある」ということを大切にしながら、見守っていけたらと思っています。

同じ出来事でも、心配の仕方は違う|子どもの発疹から考えたこと

今朝、ちょっとした出来事がありました。

年長の子の腕に、小さな発疹がいくつか出ていることに夫が気づき、
「これ、何だろう」「感染症だったらどうしよう」と心配し始めました。

親として心配になる気持ちは、とても自然なことだと思います。
一方で私は、
「今すぐ受診しなくても、夕方でも大丈夫そうかな」
「子どもにはなるべく不安を伝えずにいたい」
と考えていました。

同じ出来事を前にしても、
心配の仕方や、表に出し方は人それぞれなんだなと、改めて感じました。

夫は「考えたことを口に出すことで安心するタイプ」。
私は「まず落ち着いて、状況を整理したいタイプ」。

どちらが正しいという話ではなくて、
ただ、やり方が違うだけ。

でも朝の慌ただしい時間、
その違いがうまくかみ合わず、空気が張りつめてしまいました。

結果的に病院では
「かぶれのようなもの」とのことで、
薬をもらい、登園の許可も出て、子どもは保育園へ。

何事もなくて、本当によかったです。

今日の出来事を振り返って思うのは、
「不安そのもの」よりも、「不安の扱い方」が、家族の空気を左右するということ。

子どもは、大人の言葉や表情をとても敏感に感じ取ります。
だからこそ、大人同士で受け止める不安と、
子どもに伝える情報は、分けて考えたいなと思いました。

家族に不安を広げないって、難しい。

完璧にはできない日もあるけれど、
こうして立ち止まって振り返ること自体が、
家族にとっての小さな調整なのかもしれません。

 

 

「その子なりのペース」を信じた、次女のスイミングの話

不安が強く、泣いても理由を言葉にできない次女。

スイミングの進級をきっかけに「行きたくない」が強まり、親として悩み続けました。

 

スイミングの話

長女と次女の違いから見えたこと

スイミングを始めるとき、長女と次女では反応がまったく違いました。

長女の場合

長女は楽観的で、なんでもチャレンジできるタイプです。
スイミングもほとんど嫌がることなく、スムーズに通い始めました。

記憶に残っている壁といえば、プールの中で目を開けることに少し苦戦したくらい。
中学受験を決めて辞めるタイミングが来るまで、4泳法をマスターし、体力もつけ、やりきることができました。

次女の場合

一方で次女は、不安が強く、初めての場所や初めての経験に強い抵抗を示します。
スイミングも、提案した時点で「嫌だ!」から始まりました。

始めるタイミングは、長女よりかなり遅く、5歳から。
「そのうちやる気になるだろう」と、無理に進めず、じっとタイミングを待ちました。

なぜ、次女にスイミングをさせたかったのか

理由は、小学校入学に向けた負担を少しでも減らしたかったからです。

小学校生活は、それだけで大きな環境の変化。
そこに「プールが苦痛」という要素が重なってしまったら、さらに大きな負担になるのではないかと思いました。

今から少しずつ慣れておく方が、次女にとっては楽かもしれない。
正直、これは私が大切にしている「主体性」とは、少し離れた理由でした。

本人らしさやペースを尊重したい気持ちは強くあります。
それでも今は、「学校に通う」というレールに、まずは一緒に乗ってみよう。そんな心境です。

姉へのあこがれと、はじめの一歩

次女は姉へのあこがれが強く、姉がスイミングに通っているうちに始められた方が、心理的な負担が少ないと考えました。

あの手この手でおすすめし、姉が辞める数か月前、ぎりぎりで「やってみる」と言ってくれました。

スイミングの先生には、不安が強いタイプであることを事前に伝え、慣れるまで見守ってもらうことに。
先生のサポートのおかげで、毎週通う習慣をつけることができました。

感覚過敏があるため水への恐怖を心配していましたが、お風呂や園のプールで慣れていたこともあり、大きな問題にはなりませんでした。

進級後に見えた課題

順調に進級し、帽子の色が変わった頃。
先生、場所、内容が一気に変わり、「行きたくない」が強くなりました。

泣いて通えない日もあり、「もう辞めたほうがいいのでは」と私自身も追い込まれました。
先生に相談し、休会も含めて検討。

じっくり話を聞く中で、

  • 飛び込み練習で鼻に水が入ったことが怖かった
  • 順番を抜かされたことが納得できなかった

など、理由が少しずつ言葉になっていきました。
ただ、それを言語化するまでに、とても時間がかかります。

泣いてしまうと、理由を言葉にするまで時間がかかり、
スイミングの時間内で気持ちを切り替えることが難しい。
そんな次女の課題が、ここではっきり見えてきました。

今の次女と、これから

今も次女は、毎週スイミングに通い、集団の中で先生の指示を聞きながら頑張っています。

園では自由にふるまっている次女が、
スイミングでは「指示に従って取り組む姿」を見せてくれる。
その姿が、少しずつ自信につながっていけばいいなと思っています。

今は、「できる・できない」より「続けられていること」を大切に見守っています。

 

最近の悩みは、分離不安です。
送り出しの場面で、ママから離れるのを嫌がるようになりました。

これはスイミングだけでなく、そろばんや公文でも同じ。
その理由についても、また改めて考えて書いてみたいと思います。

長女はうまくいった。でも次女では立ち止まった、習い事と主体性の話

習い事について、最近考えていること

私は子育てにおいて、
何よりも「主体性(〜したい、という気持ち)」を大切にしたいと思っています。

長女を育てているときは、それがうまくいきました。

最初は親が習い事を提案するので、本当に本人がやりたいかどうかは、実際にやってみないと分からない部分もあります。
それでも長女は、何事もわくわくと前向きに捉え、好奇心旺盛で、「やってみたい」という気持ちを持って習い事に取り組んでいました。

一方で、次女は長女とは正反対です。
何事もまず不安から入り、「やりたい」という気持ちになりにくいタイプ。

主体性を大切にしすぎると、
「なんでも嫌」で終わってしまうことがあります。

嫌=チャレンジしない
チャレンジしない=経験できない

嫌という気持ちを尊重したいのは山々ですが、
初めてのことが苦手、予測がつかないことも苦手、初めての環境も苦手。
どんな経験をするにも、最初は「苦手」を乗り越える必要があります。

不安な気持ちを受け止めながらも、
親としては、いろいろな経験をして、いろいろな世界を知ってほしい。

そこに、YouTube依存も重なり、話はさらに複雑になります。
「主体性」「やりたい」を大切にしていると、
YouTubeがやりたい」だけを言い続ける状況にもなってしまいます。

次女に関しては、
主体性に極端にこだわりすぎず、
慣れて不安が和らぐまでは、親がある程度レールを敷くことも大切なのかもしれない。
最近、そんなふうに考えるようになりました。

次女にとっては、「やりたい気持ちを引き出す」よりも、
「安心できる状態をつくる」ことが、主体性につながるのかもしれません。

スイミング、ピアノ、そろばん、公文…。
長女と次女、それぞれの習い事に対する反応についても、
これから少しずつ書き留めていけたらと思います。